2009年06月17日

扉(とびら)、ドア(door)とは一般に建物

扉(とびら)、ドア(door)とは一般に建物、部屋や家、自動車・鉄道車両・航空機などの乗り物の出入り口につけられる建具である。戸(と)とも言うが、扉は開き戸、戸は引き戸の事を指す事が多い。

人や物の出入りを主目的しない建物の開口部は窓に分類される。

扉は、壁の開口部を閉じたり、空間を他と遮断する役目をする。

扉は建具のうちでも人や物の出入りに伴って頻繁に操作される部分であり、そのため開閉には多くの力を必要としない構造上の工夫が凝らされる。その一方で建物の内外を遮断するという目的においては、必要の無いときには開け放たれないよう、ラッチ状の留め金が組みつけられたり、鍵などによって閉鎖する機能を備えるものも多い。

こういった扉の機能は、主に内外を隔てるものであるが、その理由は様々である。一般の住宅・建築物では風雨や動物・望まれない部外者の侵入を阻むものであるが、乗物では逆に移動中に乗っている者(乗員)ないし物(貨物)が外部に飛び出さないようにするためにも設けられる。エアロックのように、内外の気圧差(圧力差)を保持するための扉もあり、これらは建物や乗物を容器とみなすならば、その内外を隔てる一種の弁としての機能を果たすものと見ることも出来よう。
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扉は必要性に応じて、様々な機能性が追加される場合もある。前述の鍵がその最たる例だが、鍵そのものが強固でも扉が簡単に破壊されては閉鎖の用を成さないため、こと衆人が自由に往来する戸外と屋内とを閉鎖する必要性のある扉や内部に貴重な物品を納める扉は強固に補強される。一方で、自動車の扉のように交通事故によって変形しても開閉するという機能が妨げられないよう強化された構造をもつものもあり、また自動ドアのように、自動化され機械的な動力を利用する扉もあるなど、必要に応じて様々な扉が利用されている。

2009年05月31日

渤海の教育制度は唐制に倣ったものであったと

日本に派遣された渤海使の随員のなかに大小さまざまな録事官が設けられていおり、また渤海滅亡後に建国された東丹国に広く博士や助教が設置されていたことから、これら官職に類似するものが渤海にも設置され、それは唐制に類似するものであったことを窺わせる。

また上流階級では女子に対する教育も実施されていた。これは貞恵公主や貞孝公主の墓碑に「女師」の文字があることから推察されている。

これらの教育制度により育成された人材は、一部が唐に留学し、科挙に及第する者を輩出するなど、相当な教育水準を有していたと考えられる。

668年 唐により高句麗滅亡、平壌に安東都護府を設置
高句麗遺民は満洲の営州に強制連行される
671年 唐・新羅戦争始まる
697年 契丹・李尽忠の乱
靺鞨の乞乞仲象、乞四比羽らが東走
唐、安東都護府を廃止
698年 大祚栄、震国建国
705年 大門芸が唐に入侍
唐による侍御史を震国に派遣
安東都督府復活
713年 唐、大祚栄に渤海郡王に冊封
719年 大祚栄卒し、大武芸即位
721年 新羅による東北国境での長城建設
722年 黒水靺鞨が渤海領を通過して唐に遣使
725年 唐により黒水靺鞨に黒水府が設置される
726年 大武芸の弟・大門芸、唐に亡命
727年 渤海、高仁義らを日本に派遣。蝦夷地に漂着したため高仁義等多数が殺害され、残った者が高斉徳に率いられ入京
728年 日本、送渤海使を派遣
732年 渤海の将・張文休、水軍を率いて山東の蓬莱港を占領
733年 唐、大門芸に命じて渤海を攻撃させるが、大雪のため失敗
738年 大武芸卒、大欽茂即位
739年 遣唐判官・平群広成、渤海使とともに帰国
746年 渤海人及び鉄利人1100人出羽国に漂着
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749年 この頃、旧国より中京顕徳府に遷都
755年 この頃、中京顕徳府から上京龍泉府に遷都
762年 唐により大欽茂を渤海国王に冊封
774年 大興から宝暦に改元
777年 日本の舞女11人を唐に献上
779年 渤海人通事、日本の朝廷で鉄利人と席を争う
785年 上京龍泉府から東京龍原府に遷都
790年 新羅、伯魚を渤海に派遣
793年 大欽茂卒
弟・元義が即位するが廃位され、嫡孫が即位
都を東京龍原府から上京龍泉府に戻す
798年 唐により大嵩璘を渤海国王に冊封
809年 唐により大元瑜を渤海国王に冊封
810年 日本からの最後の第15次遣渤海使
812年 新羅が崇正を派遣
813年 唐により大言義を渤海国王に冊封
818年 唐により大仁秀を渤海国王に冊封
821年 王文矩を日本に派遣
826年 新羅、渤海との国境に長城を築く
830年 大仁秀卒、大彜震が即位
咸和と改元
833年 賀守謙を幽州盧龍節度使に派遣
唐により張建章の渤海遣使
853年 張建章が幽州に戻り『渤海記』を著す
860年 李居正を日本に派遣
906年 宰相の烏炤度を唐に遣使
その子の光賛、賓貢に及第
907年 唐滅亡。渤海
911年 大光賛を後梁に派遣
918年 遼に使節を派遣
919年 最後の渤海使を日本に派遣
924年 渤海軍、契丹軍占領中の遼東に反攻
925年 契丹軍、渤海の扶余府に侵攻
礼部卿の大和釣ら100戸を率いて高麗に投ず
926年 契丹軍、上京龍泉府を攻略。渤海滅亡
契丹、渤海故地に東丹国設置。
928年 東丹国、遼陽に遷都
929年 東丹国使、来日
930年 日本との通交が絶える
以降、東丹国が史料から消滅

2009年04月27日

笑気麻酔

笑気麻酔(しょうきますい)は、医療用ガスの一種である笑気ガスと医療用酸素を用いた全身麻酔。笑気は亜酸化窒素の別名である。笑気の語源には亜酸化窒素を用いた手術中に麻酔に拠って弛緩した患者の表情が笑っているように見えたからという説が有力である。

麻酔、亜酸化窒素の項目も参照されたい。

笑気は、1772年にイギリス人化学者ジョゼフ・プリーストリーによって発見され、1795年にハンフリー・デービーによって麻酔作用があることが証明された。ところが1845年、アメリカ人歯科医師ホーレス・ウェルズが笑気を用いて公開で麻酔を行ったが失敗に終わっている。

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現在の笑気麻酔
笑気は麻酔ガスとして知られているものの、単独で用いるだけでは人を完全に麻酔することができない。具体的には、麻酔薬の効果のものさしとなるMAC値(Minimum Anesthetic(またはAlveolar) Concentration;最小肺胞濃度)が、笑気では100%を超える。(1気圧のとき)これは、たとえ100%笑気を吸入させたとしても人を完全に麻酔することはできないことを意味する(実際は100%笑気を吸入してしまうと酸素が全く吸入されないことになり、非常に危険なため行ってはならない)。

しかし、笑気には鎮痛効果が強いという利点がある。その強さは他の新しい麻酔薬よりもむしろ強いほどである。そのため、現在の麻酔では笑気は単独で麻酔に用いられることは少ないが、他の麻酔薬と併用して鎮痛効果を期待する麻酔補助薬と位置づけられている。

笑気麻酔は全身麻酔に幅広く行われる。しかし、笑気は腸管などの閉鎖空間に移行しやすいため、腸管穿孔、気胸、眼科の患者では使いにくい。 また肺動脈圧や脳圧も上昇させるため、心臓外科や脳外科の手術でもあまりもちいられない。

2009年04月12日

地球型惑星

地球型惑星(ちきゅうがたわくせい)とは、主に岩石や金属などの難揮発性物質から構成される惑星をいう。太陽系では水星・金星・地球・火星の四惑星がこれにあたる。木星型惑星・天王星型惑星と比べ、質量が小さく密度が大きい。

太陽系での地球型惑星の形成 [編集]
太陽系の起源は、宇宙空間に漂う星間雲にある。星間雲は水素が主成分で、これにヘリウム、微少量の(天文学的にいう)重元素が混ざっている。星間雲の形成は、銀河系円盤内の密度波によるとする説が有力である。近傍で超新星爆発が起こるなどの何らかのきっかけがあると星間雲の内部でガスが圧縮され、密度むらが生じる。相対的に密度が高い部分は自己重力により収縮し、周囲のガスを付加しながら高密度化する。この高密度化した部分で恒星が誕生する。

星間雲はもともとわずかに回転しているため、収縮した部分は、その中心(原始星)の周囲に、重力が向心力として働く回転円盤を形成する。回転円盤内では、微少量の重元素のうち固体を形成する成分が赤道面に沈積し、ここで微惑星が誕生する。この微惑星が衝突合体(集積)を繰り返して成長したものが惑星である。

岩石質、金属質の微惑星が集積してできた惑星は固体惑星あるいは地球型惑星と呼ばれる。水やメタン、二酸化炭素などの氷が存在できない領域で形成されるので、必然的に恒星に近い場所で誕生する。

系外地球型惑星 [編集]
地球型惑星は、質量・体積ともに小さいため、もし太陽系以外の恒星系に地球型惑星が存在していても、それを発見するのは木星型惑星に比べてきわめて難しかった。

しかし観測技術の発達から、2005年にはアメリカの探査チームが地球から15光年離れた赤色矮星グリーゼ876において、地球質量6?7倍の地球型惑星とみられるグリーゼ876dを発見。さらに同年、重力レンズを用いた観測により約2万光年先の距離にて、地球質量5倍程度の惑星OGLE-2005-BLG-390Lbを報告した。

続く2007年には、地球から20光年離れた赤色矮星グリーゼ581に地球質量のそれぞれ5倍(グリーゼ581c)と8倍(グリーゼ581d)の惑星が発見される。このうちグリーゼ581cはハビタブルゾーン内を公転しているとみられていたが、後に否定的な論文が発表された。それに代わり、グリーゼ581dがハビタブルゾーン内を公転している可能性が示唆されている。

これらは「スーパーアース(巨大地球型惑星)」と呼ばれ、太陽系の地球型惑星と比較するとやや質量は大きい。しかし主成分は地球などと同様、岩石(一部は氷)とされており、今後、更なる低質量の惑星発見が期待されている。

また、ヨーロッパ南天天文台が原始惑星系円盤の内側領域で、地球型惑星の材料となる岩石質微惑星の形成が進んでいるという観測結果を報告したことや、シミュレーション(数値計算実験)技術の発達から、多くの恒星に地球型惑星が存在する可能性があるという考え方が強くなってきている。

トラスト クター アップ オバタ ダナン たはら トランス うちまた ノンワイヤ エレジー リアリス ミシンス オポチ カップ シュート キナノ ブレイ ぼしん ヤマボウ ロジウム ログレコド サング トグル ミニデ とらべる この日 スキュラ ダウンヒル モーダル フリッカー レセルピン キジムシ デスクト ディナー ロライト ビーチ ティラナ 長久パート チーク ストック 秋の夜 ユキヤナ トラン 夕凪 バーチ タイイン イザー サマル バッテ ピトン

2009年03月27日

3つの王国の統治者であった

神聖ローマ帝国の皇帝は、
アップ ロマン ロード リシマ トラン 明応人気 オカルトア 白い部屋 ナトー デジャブ ショッ トコール デリカ オオタニ シーテ ジェム カメレオ パープル シング ライスワン ドワーフ ワルツ 古都の雪 むろあじ セーラー パックプ スクー 寛平 ラニーニャ こまどり バックド キャリ あさお ラスト 桃太郎 シャガール ピリオド 探偵団 フォール ストマック ステアリ アトリス シャー キムチ ゼット トースト テレプレ ファイル にいつ ゴムボート

ドイツ王国[2]
イタリア王国
ブルグント王国(1032年以降)
の3つの王国の統治者であった。これはカロリング朝フランク王の正式な称号が「フランク人、ランゴバルト人、ローマ人の保護者」であった伝統を引き継いでいる。

神聖ローマ皇帝はそれぞれ別の場所で戴冠式を行い、その上でローマ教皇により「ローマ皇帝」に戴冠されて、「帝国」全体に君臨した。ただし1508年にマクシミリアン1世が教皇から戴冠されることなく「皇帝」を称してからは、ドイツ王=ローマ王に選出された時点で皇帝を名乗るのが慣例化した。なお、ドイツ王=ローマ王になったからといって常に皇帝になれるとは限らなかった。ローマに遠征を行って戴冠式を行えるかはその国王の実力にかかっていた。

962年、オットー1世がローマ教皇ヨハネス12世により、古代ローマ帝国の継承者として皇帝に戴冠したときから始まる。もっとも神聖ローマ皇帝の初代はゲルマン部族国家の王で最初にローマ教皇権と結託してローマ皇帝の帝冠を頂いたカール大帝であるという思想・理念もある。

もともとザクセン部族大公権を権力の母体としてその歴史を開始しており、ザクセン人の伝統はフランク人と違って非常時以外には王を戴かぬ選挙王制だったため、当初から帝権は弱体で、封建領主の連合体という側面が強かった。その上、歴代の皇帝は「ローマ帝国」という名目のためにイタリアの支配権を唱え、度々侵攻した(イタリア政策)。このためドイツでの帝権強化にまで手が回らず、他国に比べ中央集権化が遅れた。

1254年にホーエンシュタウフェン朝が断絶すると、20年近くも皇帝が選ばれない大空位時代となり、「帝国」としての実体をまったく成さない状態となった。14世紀のカール4世による金印勅書以降、皇帝は有力な7人の封建領主(選帝侯)による選挙で選ばれるようになり、さらに選帝侯には裁判権、貨幣鋳造権、独自の外交権等の強大な自治権が与えられた。

これに対し、1495年から、帝国改造が皇帝マクシミリアン1世とマインツ大司教ベルトルト・フォン・ヘンネブルクの主導で行われた。その結果、神聖ローマ帝国は諸侯の連合体として新たな歴史を歩むこととなる。この帝国改造の流れに終止符を打ったのが1648年のヴェストファーレン条約であった。これにより、各諸侯に大幅な自治が認められる一方、平和的な紛争解決手段が整えられ、諸侯の協力による帝国の集団防衛という神聖ローマ帝国独特の制度が確立することとなった。しかしながら、その後プロイセンが台頭したことにより、諸侯のバランスは崩壊。帝国はやがて機能不全に陥った。

19世紀初頭にはフランス皇帝ナポレオン・ボナパルトの侵攻を受け、フランスの属国的なライン同盟に再編された。帝国内の全諸侯が帝国からの脱退を宣言すると、既に「オーストリア皇帝フランツ1世」を称していた神聖ローマ帝国皇帝フランツ2世は退位し、帝国は完全に解体されて終焉を迎えた。


2009年03月12日

カルパティア山脈のブナ原生林

カルパティア山脈のブナ原生林は、スロバキアとウクライナが共有するユネスコの世界自然遺産である。東カルパティア山脈に残るブナの原生林は、ヨーロッパに残るブナ林の中でも樹齢、種類の多様さ、木々の大きさ、範囲の広さなどの点で突出した価値を持つ。
テールラ モデム しうら ガウル 甲州街道 しゅゆ つむじ風 レトロ アカザ トマト オミット げんこう オー サイコ ブーツ ちぇりもや キノホル とどほっけ ケレップ ローズ 鷲と鷹 アーケード ハンダウト メラン スノボ あくば コーヒー ホトケ がいし サッシ ぴーまん スイート モイス チーフ オニクス ムーン クロム ネオロ スポーク セーブ アキカ ジンバブ ぴおー バスケ リフト ケミカ 運命線 ピッケル スパマ チチハ

登録対象はウクライナの6箇所とスロバキアの4箇所の計10箇所である。行政区分上は、ウクライナの登録対象は全てザカルパッチャ地方に含まれており、スロバキアの登録対象は全てプレショフ地方(Prešov Region)に含まれている。保護区別に見た場合、ウクライナの対象のうち5箇所は、カルパティア生物圏保護区(the Carpathian Biosphere Reserve)に含まれ、残り1箇所はウズハンスキ国立公園(Uzhanskyi National Park)に属している。スロバキアの4箇所は、ポロニニ国立公園(Poloniny National Park)とその緩衝地域の保護区(Rook国立自然保護区)、およびHavešovà自然保護区とVihorlat景観保護区にそれぞれ含まれている。

植物相
登録名にも表れているようにブナ科の原生林に覆われているが、標高によってブナ、ヨーロッパナラ、フユナラ(Quercus petraea)、ヨーロッパモミ(Abies alba)など種類が異なる。ブナ目の樹木としてはAlnus viridis(ハンノキの一種)、セイヨウシデ(Carpinus betulus)なども見られる。それ以外にも、ノルウェーカエデ(Acer platanoides)、コブカエデ(Acer campestre)、セイヨウボダイジュ、フユボダイジュ(Tilia cordata)、セイヨウトネリコ(Fraxinus excelsior)などが生育している[1]。

登録範囲の森林には、確認されているだけでも481種の菌類が生息している。他にも、登録範囲内には地衣類、コケ類などが各400種以上ずつ確認されている。維管束植物は1100種以上である[1]。

動物相
登録対象範囲には、73種の哺乳類が棲息しているが、大型哺乳類には、ヒグマ、ヨーロッパバイソン、オオヤマネコなどのように、第二次世界大戦後に他の地域から移入されたものも含まれている。ほかに、20種の魚類、10種の両生類、8種の爬虫類、101種の鳥類などの棲息が確認されている

2009年02月23日

ドラゴンクエストシリーズ

ドラゴンクエストシリーズでは、主人公は「プレイヤーの分身」という位置づけとなっている。このため、主人公の名前はゲーム開始時にプレイヤー自身が自分で付ける。『III』と『IV』では性別も選択できる。
せんぼ メカイ ママコー フリーパス ナンキ プルタブ ジャワ フロント ムラサキ ルスカ サファー ルビジウム レジス スギ シャギー フェン ピット お祭り センチ ピアニ ディー まほうの夏 ストラップ キュラ ニッツェル 鳥の巣 しらかし ケイス やはば フィン マップ はなゆ プレーボ さつま ビジー ソマト べーる リュウ ストーブ ニール バギー ブラシノキ キャップ ノータム ソリティ デプロ ハラッパー ナイル クロスプレー クロスワード

敵を倒すことによって得られる経験値(Ex)が一定値に達することによってキャラクターのレベル(Lv)が1段階上昇し、それと同時にキャラクターのステータス(強さを表す数値)も何ポイントか上昇する。また、レベルアップによって呪文や特技を新たに覚える場合もある。得られる経験値は基本的に強い敵ほど多く、また、主人公側のレベルの数値が高くなるほどレベルアップに必要な経験値も多くなっていく。

このほか、『VI』『VII』の「職業熟練度」や『VIII』の「スキル」など、作品独特の成長システムもあるが、それらについてはのこと。

ステータス
キャラクターのステータスには主に以下のようなものがある。これらのステータスはレベルアップ時だけでなく、種や木の実などのアイテムの使用によって上昇させることもできる。

HP(ヒットポイント) : キャラクターの生命力。ダメージを受けると減っていき、0になることは戦闘不能となりそのキャラクターの死を意味する。宿屋などに泊まることによって最大値まで回復できるほか、呪文やアイテムによって回復させることもできる。現在のHPの最大値を「さいだいHP」という。なお、一部シリーズではHPが0になった際の表現が「しんでしまった!」から「ちからつきた!」という表現に変更されている場合も存在する。
MP(マジックパワー) : キャラクターの魔力。呪文を唱えることで、その分のMPが減る。宿屋などに泊まることによって最大値まで回復できるほか、アイテムによって回復させることもできる。現在のMPの最大値を「さいだいMP」という。
ちから : 武器を何も装備していないときの攻撃力。
すばやさ : この値が高いほど、戦闘のターン内で先手を取れる確率が高くなる。下記の「みのまもり」が存在しない作品ではこの値の半分が防具を何も装備していないときの守備力となる。
みのまもり : 『V』以降とリメイク版『I・II』、DS版『IV』における、防具を何も装備していないときの守備力。
こうげき力(攻撃力) : 武器による攻撃の威力の大きさ。この値が高いほど敵に与えるダメージが大きくなる。「ちから」に武器の攻撃力をプラスした数値。
しゅび力(守備力) : キャラクターの頑丈さ。この値が高いほど敵から受けるダメージが小さくなる。「すばやさ」の半分または「みのまもり」の値に、装備している防具の守備力の合計をプラスした数値。
このほか、「かしこさ」のように作品ごとに役割の異なるステータスや、「たいりょく」、「うんのよさ」、「かっこよさ」といった一部の作品にのみ登場するステータスがある。

ステータス異常
モンスターの攻撃などによって、主人公たちが以下のような異常な状態に陥る場合がある。逆に敵に対して状態異常を起こさせることも可能。

死(「しに」):HPが0になった状態。いわゆる戦闘不能状態で一切の行動ができなくなり、全員が死亡すると全滅となる。移動中は死んでいるキャラクターは棺桶の姿で表される。『V』では、死と似ているが戦闘終了後にHPが1になって復活する「気絶」という状態もある。
毒(「どく」):戦闘中に限っては影響は何も無いが、戦闘終了後、数歩歩くごとにHPが徐々に減っていく。
猛毒(「もうどく」):通常の毒の症状に加えて、戦闘中にも1ターンごとにダメージを受ける。
麻痺(「まひ」):一切の行動ができなくなる。移動中に歩いていると自然に治ることがある。作品によって戦闘中の自然回復がある場合と無い場合がある。自然回復がない作品の場合、生きているメンバー全員が麻痺すると全滅扱いとなる。その際のペナルティは作品によって違う場合がある。
混乱(「らん」「こんらん」):コマンドどおりの行動をせず、味方に対して攻撃をしたり、意味不明の行動をとったりする。
眠り(「ねる」「ねむり」):眠ってしまい、行動ができない状態。戦闘中に自然回復することもあるが、打撃攻撃を受けると目を覚ますこともある。
呪い:呪いのかかったアイテムを装備した状態。装備者や味方にとって不利な状況となるが、アイテムによって症状は異なる。『V』『VIII』では敵によって呪いをかけられることがある。
マヌーサ(「マヌ」「マヌーサ」):幻に包まれた状態。通常攻撃の命中率が低下する。
マホトーン(「マホ」「マホトン」):呪文が封じられた状態。

呪文・特技

呪文を唱えることで様々な魔法の力を行使できる。使用の際にはMPを消費し、使用することによって敵へのダメージ、味方の回復、瞬間移動など様々な効果が現れる。攻撃呪文・攻撃補助呪文・補助呪文・回復呪文・移動中専用の呪文などに分類され、『III』以降の作品では系統別に整理されている。

特技とは、炎や吹雪を吐く、踊りを踊る、特殊な剣技や武術などといった、呪文以外の特殊行動の事を指す。特技には、MPを消費するものと、MPを消費せずに使用できるものとがある(作品によっても異なる)。

移動
移動画面では、主人公たちを動かし、目的地へと移動する。移動の途中にコマンドウィンドウを開くことにより、人と「はなす」、足元や目の前のものを「しらべる」、「どうぐ」(アイテム)や「じゅもん」(呪文)を使用する、「つよさ」でステータスを見る、「さくせん」で作戦や設定を変更する、などといったことができる。「はなす」「しらべる」に関してはスーパーファミコン以降の作品ではボタンひとつで可能となっている。

マップによっては移動中に敵モンスターとの戦闘が発生することがある。『VIII』までの作品では、一部の例外を除き、移動画面で敵の姿が見えず、移動中に突然戦闘が始まる「ランダムエンカウント」システムである。

主人公たちが移動する空間(マップ)は、世界地図の形をした「フィールドマップ」と、城・町・村・ほこら、ダンジョンとに分けられる。

フィールドマップ
その作品の世界全体のマップ。町やダンジョンなどが点在する。町から町へ、あるいは町からダンジョンへ移動するときなどには、このフィールドマップを利用することとなる。『III』以降の作品では複数のフィールドマップが存在する。フィールドは敵モンスターがうろついており、モンスターに遭遇すると戦闘が発生する。船や魔法のじゅうたんなどの乗り物を利用することによって通常は移動できない水上を移動したり、空を飛んだりすることもできる。時間の流れの概念がある作品では、フィールド上を進んでいると時間が昼から夜へ、夜から昼へと移り変わる。
城・町・村
数人―数十人の人々が暮らしており、それらの人々から話を聞くことができる。店などの施設も揃っている。タンスや壷などからアイテム収集をすることもできる。廃墟である場合を除き、敵モンスターはイベント以外では出現しない。
ほこら(祠)、一軒家など
町などよりも小規模な場所で、人間が1人―数人住んでいたり、あるいは無人で旅の扉(用語の節を参照)やアイテムだけがあったりする。
ダンジョン
主に洞窟や塔などの迷宮を指す。たいてい、その周辺のフィールドマップよりも若干強い敵モンスターが出現する。内部にはアイテムや金の入った宝箱がいくつか置かれていることが多く、落とし穴などの罠や、パズルのような謎解きの仕掛けが用意されているダンジョンもある。最深部には重要アイテムがあったり、ボスモンスターが待ち構えていたりすることもある。

戦闘
プレイヤーキャラクターと敵キャラクターとの戦闘は、「ターン」とよばれる区切りの中で、自軍・敵軍の各キャラクターが一回ずつ行動していく(中には複数回連続行動するキャラクターもいる)、いわゆるターン制。第1作は1対1、それ以外の作品では敵側・プレイヤー側とも1体―複数のキャラクターが参加する。

プレイヤーキャラクターの行動は、基本的に、コマンド選択により命令を与えることによって決定する。プレイヤー側全員の行動が決定した時点で、「1ターン」が始まり、そして敵かプレイヤー側のどちらかが全滅するまで「ターン」が繰り返される。敵を全員倒せば「勝利」となり、倒した敵の分の経験値と貨幣が得られる。プレイヤーキャラクターが全員倒されれば「全滅」となり、所持金が半分となり前回セーブした場所に戻される(ゲームオーバーとはならない)。ただし全滅の扱いについては例外があり、一部の全滅イベント戦闘の場合はそのままイベントが進行し(所持金が半分になるかはイベントによる)、『V』の序盤などでは主人公が倒された時点で全滅扱いとされる場合がある。また、敵から逃げることに成功した場合も戦闘終了となるが、この場合は何も得られない。

複数扱いが始まった『II』以降、敵キャラクターの数を表示するようになっているが、その助数詞は『ひき』ないし『匹』である。これは敵がボスキャラクターであろうが、例え人間キャラであろうが例外ではない。

『IV』以降の作品では、主人公を除くキャラクターにあらかじめ「作戦」を与えておくことにより、コンピュータがAI(人工知能)によって各自の行動を自動的に決定する。オリジナル版の『IV』『V』『VI』ではパーティ全体に、『VII』『VIII』および『IV』『V』のリメイク版ではキャラクターごとに設定する。

本シリーズの戦闘画面は、『VII』以前では、画面内にプレイヤーキャラクターの姿は映らず、現れた敵キャラクターの姿のみが映し出される。ただし、『VIII』以降では3D化に伴いプレイヤーキャラクターの姿も映し出されるようになった。

貨幣
ドラゴンクエストシリーズでの貨幣単位は「ゴールド」[8]と呼ばれる。記号は「G」。パーティー全体で共用する。敵を倒すことによって得られるほか、宝箱や壷などから得られたり、イベントでもらえたりすることもある。

アイテム
アイテム(道具)は、主に次の方法で入手することができる。入手するとパーティのキャラクターの持ち物(または「ふくろ」)にそのアイテムが加わる。

店でゴールドを払って買う
宝箱や壷・箪笥などから、または足元を調べて手に入れる
敵モンスターとの戦闘に勝利したときに敵の落とした宝箱から入手する
カジノなどのサブゲームの景品として
町やダンジョンなどにいる人物から貰う
また、不要になったアイテムは、店で売ってゴールドに変えるか、「すてる」コマンドでその場に捨てるといった方法で手放すことができる。ただし一部の重要アイテム、呪いの武器防具を装備して呪われている場合はこれらの方法で手放すことはできない。

アイテムの分類
本シリーズに登場するアイテムは、主に次のように分類される。ゲーム内ではいずれも「道具」として総称される。

装備することができるもの
キャラクターが装備することによって能力値を上げることができるもの。装備しないと効果が現れない。装備可能なアイテムはキャラクターごとに定められている。能力の上昇幅はアイテムによって異なり、終盤に手に入るものほど威力の大きいものが多い。装備品の中には「つかう」ことによって特殊な効力を発揮するものもあるほか、ストーリーの進行に必須なものもある。
武器:敵モンスターに対して攻撃するためのアイテム。装備すると攻撃力が上昇する。『V』以降の作品では、ムチやブーメランなどは複数の敵を一度に攻撃できるようになった。
防具:敵からの攻撃によるダメージを少なくするためのアイテム。装備すると守備力が上昇する。胴体に身につける鎧、片手に持って敵の攻撃から身を守る盾、頭部に身につける兜(第1作には登場しない)の3種類に分けられ、1種類ごとそれぞれ1つずつ装備することができる。
装飾品:装備することができるアイテムのうち、武器にも防具にも分類されないもの。装備していると特殊な効果が現れたり、ステータスが一定量上昇したりする。『V』まででは1人がいくつでも装備できたが、『VI』以降とリメイク版『III』『IV』では1人につき1つしか装備できない。
装備することができないもの
以下に挙げるものは主に「どうぐ」コマンドで「つかう」ことによって威力を発揮するアイテムである。
道具:狭義の「道具」とは「やくそう」「どくけしそう」などの回復アイテムや、「キメラのつばさ」などの移動中に使用するアイテムなどを指す。一度使うとなくなってしまうものが多い。
だいじなもの:いわゆるキーアイテム。ストーリーの進行に欠かせないアイテムである。店に売ったり捨てたりすることができないものが多い。

2009年02月07日

ソ連型社会主義

ソ連型社会主義(ソれんがたしゃかいしゅぎ)とは、ヨシフ・スターリンの指導の下、ソビエト連邦で1920年代から1930年代にかけて確立し、後に東欧などでも導入された社会主義制度を指す。共産党の一党独裁、計画経済、官僚制、個人崇拝、生産手段の国有化を特徴とする。
トラン パラグ ピロティ 桂うり プラン マーガリン シング サラウンド シャン リネージ バージニ コルホーズ ハンドア ロサク 天体議会 てきか フェンディ ドメーヌ ロココ サファ みつば 最遊記 リーター ささぶね ノリウッド パパイン ライン 江戸手拭 フォビア ズクロー ツイザー 時計台の鐘 オーラン ラグビー ハッチ びわ乃 ティモール ワイン プーリー タッチ トゥク がらいろ ナリア こだわり ばんか チョオ 星の衣 レイヤ ハナキ かくの

カール・マルクスは共産主義が実現されれば階級支配が無くなって自由で平等な社会が実現し、階級支配の機関としての国家も死滅すると考えた。しかし共産主義者が権力を握ったソ連や東欧では社会主義の名の下に民主主義や基本的人権が否定され、マルクスの理想と正反対の現実が生み出された。そこでソ連や東欧の体制に批判的な社会主義者や共産主義者は現に存在する体制を本来の理想と区別する意味で「ソ連型社会主義」と呼ぶようになった。

ユーゴスラビアや中国などでソ連や東欧とは異なる型の体制が生まれたことも背景にある。一方、社会主義・共産主義を支持しない者は理想と現実の落差やソ連とユーゴスラビア等の違いを重要視しないため、この用語を使用することはあまりない。特に日本の場合は「社会主義」と言えばこのソ連型社会主義の事を指すのが一般的になるほどである。

歴史
ソ連の成立から第二次世界大戦まで
レーニン時代
1917年のロシア革命の結果、旧ロシア帝国にはウラジーミル・レーニンを首班とするボリシェヴィキの革命政権が登場した。しかしロシアはマルクスが社会主義革命の発生国として想定したイギリスやフランスのような先進工業国ではなく、両国やアメリカ合衆国と比較して資本主義の発展が遅れ、民間企業の発展が不十分だったため、特に重工業においては国家主導による経済建設が必要な段階にあった。また政治も専制的なロマノフ王朝による支配が長く続き、民主制の伝統は制限選挙によるドゥーマなどごく限られた物に過ぎなかった。

レーニンは帝政ロシアの残党(白軍)などの反革命勢力や諸外国からの干渉戦争から自らの政権を守るために、戦時共産主義と呼ばれる軍政に近い体制を敷いた。この結果、全ての企業は国有化され、企業家や地主は追放され、内戦に勝利することができた。ボリシェヴィキ以外の全ての政党は解散され、世界初の一党独裁制を確立させ、反対派に対しては秘密警察による取締りを強化した。

これにより1922年に正式にソビエト連邦が成立したが、国内における経済活動は完全に破壊され、農村では数百万人の餓死者が発生し、工業生産力は第一次世界大戦前の20-30%程度まで落ち込んだ。レーニンは社会主義化を一歩前進と考え、1921年にネップ(新経済政策)を発表して一定規模の市場経済を認める方針をとった。

スターリン独裁
1924年のレーニンの死後、ソ連の最高権力者となったスターリンは再び強硬な社会主義化路線に戻り、1928年に第一次五ヶ年計画を開始して、農業の集団化、重工業に大きく偏った国家主導の工業建設を強行した。ボリシェヴィキから改組されソ連における独裁政党となった共産党内部の批判派は一掃され、亡くなったレーニンと、その後継者であるスターリンへの個人崇拝まで行われるに至った。ここに、マルクスの想定していた科学的社会主義の理想とはかけ離れた体制、「ソ連型社会主義」が成立したのである。

社会主義を掲げたソ連は1930年代に世界を揺るがした世界恐慌の影響を全く受けず、大きな経済成長を成し遂げた。その経済成長は政治犯や思想犯を中心とした強制労働(実質的な奴隷制)に支えられ、その富は共産党の上層部に集中して配分されたものであるが、実情を知らない資本主義国家群の知識人(ジョージ・バーナード・ショーなど)から、理想社会のように受け止められた。

これは1936年に制定されたソ連の新憲法(スターリン憲法)が民主主義の発展と国民の幅広い権利の擁護を明記したためでもあるが、実際にはこの憲法の精神は全く省みられる事はなく、ちょうどこの時期に反対派の粛清が大規模に行われた。これは社会民主労働党内におけるレーニンのメンシェヴィキ粛清よりも大規模なものであり、この時期に粛清された共産党幹部や国民の多くには、党の指導性に挑戦した反党分子の汚名が着せられた。

ただし、このスターリンによる社会主義体制は数百万人とも数千万人とも言われる大量の人々の餓死、処刑、流刑を招いた一方、大地主や貴族への富の偏在、特に農村部における絶対的貧困や公衆衛生の立ち後れなど、帝国政府が数百年にわたって解決できなかった社会的問題に対して一定の成果を挙げた。

ノルマと呼ばれる計画生産数値の設定、巨大な工場群であるコンビナート、陣地に大量配備されたトーチカは生産物の質より量が重視されたこの時代では一定の効果があり、ソ連の力を高めた。また、中長期的な経済目標を国家が設定する方式は世界恐慌を食い止められなかった資本主義諸国にも影響を与え、ケインズ経済学による公共投資の重視やアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領によるニューディール政策の実施、西ヨーロッパ諸国、特にフランスやイタリアで採用された混合経済体制の構築につながった。また、ナチズムを掲げるナチス・ドイツでも四ヶ年計画による経済建設と軍備増強が行われた(統制方法についてもスターリン型社会主義を参考にしたという意見もある)。

第二次世界大戦以後
ソ連型社会主義の拡大と混乱
ソ連は第二次世界大戦に勝利すると、自らの影響下に収めた東ヨーロッパの国にこの体制を押し付ける形で「人民民主主義体制」と自称する社会主義政権を樹立していき、資本主義国と対峙した。その各国では、チェコスロヴァキアのクレメント・ゴットヴァルト、ユーゴスラヴィアのヨシップ・ブロズ・チトーのような小スターリンが登場した。

ただし、チトーは1948年にスターリンと決別し、国家ではなく労働者が企業を管理する独自の経済と、ソ連と資本主義諸国との中立・非同盟外交政策を柱とした独自の社会主義国家を建設していった。これをスターリンはチトー主義と呼んで強く批判し、特に東ヨーロッパ諸国では共産党内の反主流派をチトー主義者として粛清する例が続出した。

ソ連型社会主義は前述のように個人の人権や自由を抑圧する体制であり、1953年のスターリン死去後、1956年に彼の後継者ニキータ・フルシチョフがスターリン批判を行うとソ連国内でも一定の枠内で言論の自由化や粛清犠牲者の名誉回復が行われた。

また、東ヨーロッパ諸国では1956年のハンガリー動乱や1968年のチェコスロヴァキアで起きたプラハの春のようなより大きな変革を求める運動が起きた。しかし、ソ連は制限主権論(ブレジネフ・ドクトリン)を主張して、これらの動きを武力で鎮圧した。

特にソ連が問題としたのはこれらの運動の要求に共産主義政党の指導性を否定し、自由選挙に基づく複数政党制への志向を見せた事であった。これは社会主義イデオロギーの問題であると同時に、ロシア防衛の最前線を絶対に後退させないという帝政時代からの地政学的問題でもあった。

また、特にチェコスロヴァキア軍事介入については1956年のスターリン批判以来徐々に表れていた西ヨーロッパ各国の共産党や日本共産党、および各国の知識人や社会主義・社会民主主義政党におけるソ連型社会主義への不信感を増幅させた。その結果、ユーロコミュニズムと呼ばれる、議会制民主主義による政権交代を前提とした平和革命による社会主義建設への路線をとらせた。ただし、これらの共産党の多くでも、その内部においては党指導部を頂点とした民主集中制を維持した。

停滞と改革
ソ連型社会主義は、特に1970年代以降は経済の疲弊が目立ち、食料や日用品にも事欠く状態になったために、各国の人民には不満が鬱積していた。特にノルマを重視する生産計画では質の問題が軽視され、特にソ連ではアメリカとの冷戦により国力に対して過重な軍拡競争を強いられたため、軽工業への生産資源配分が限られるという事情があった。

流通業などのサービス部門の価値は非常に低く見られ、共産党幹部など一部の特権階級(共産貴族)を除いた一般国民にはコスト意識や奉仕精神の低い従業員による劣悪なサービスしか提供されなかった。また、資本主義諸国で急速に進んだ情報工学の導入は一部の軍需部門を除いて行われず、資本主義諸国で起こった情報革命は全く発生しなかったため、東西の経済格差は絶望的に開いた。また、ノルマ至上主義の構造的欠陥として環境問題への対応は完全に後手に回った。

これらの生活水準の低さや公害の拡大を政府の失政として批判する事は社会主義体制への反革命行為と見なされ、危険な行為であったため、国民の間には事なかれ主義や政治的無関心が蔓延し国民の不満は社会の奥深くに、急速に蓄積された。また、共産党幹部の出世は担当部門におけるノルマの達成に左右されたため、立身出世や保身のための超過数値や虚偽報告が横行し、的確な経済政策を作成するための前提が崩れた。

この社会危機に対し、各国の共産主義政党政権が取った方針は実は多様であった。ソ連自身ではエフセイ・リーベルマンにより提唱された生産利潤制の導入が1960年代後半にアレクセイ・コスイギン首相によって行われたが、プラハの春以降の保守化によって中断され、レオニード・ブレジネフ時代の長期停滞へ進んでいった。

一方、ハンガリー動乱で成立したハンガリーのヤーノシュ・カーダール政権は外交面での対ソ追従とハンガリー社会主義労働者党による一党支配体制の堅持を確約してソ連による再度の軍事介入を封じた上で、民営企業の育成や農産物流通の自由化などの国内経済改革を実施し、社会主義国としては例外的な経済成長に成功した。

反対にアルバニアではアルバニア労働党第一書記のエンヴェル・ホッジャが一切の改革を拒否し、スターリン以上にスターリン主義的と呼ばれる独裁体制を築き、自らの方針に反する何人もの政府高官を処刑した。

また、中華人民共和国では毛沢東が独自の毛沢東思想を形成し、人民公社建設などの農業重視による独自の社会主義体制を志向した。ただし、中国共産党の指導性を堅持する点ではソ連型社会主義と共通の性格を持っていた。

ソ連型社会主義の終幕と残存
ペレストロイカと東欧民主化
1980年代に入ると、ソ連国内では、硬直化した自国の社会主義体制を根本的に改革する必要性が共産党指導部の間でも共有されはじめた。1982年に共産党書記長へ就任したKGB出身のユーリ・アンドロポフは国内綱紀の引き締めを図り、1985年に同職に就いたミハイル・ゴルバチョフはペレストロイカを唱えて経済再建に着手した。

これはポーランドやハンガリーで先行していた経済改革がモデルとなった。改革が進行すると長年の統制で疲弊した国民の間で自由化を求める声が一気に増加し、1989年には東欧革命と呼ばれる一連の民主化が東ヨーロッパ諸国で発生し、従来のソ連型社会主義体制は放棄された。

ソ連解体
この動きを容認したゴルバチョフはソ連に複数政党制を導入して共産党と連邦政府の権力を分離し、社会主義イデオロギー色を抜いた上で、民族共和国の共同体としてソビエト連邦を再生する事を考えた。1990年にソ連憲法が改正され、共産党の一党支配が否定された事で、ソ連型社会主義は幕を下ろした。

ゴルバチョフはソ連大統領と共産党書記長を兼任したが、共産党は急速に求心力を失い、1991年のソ連8月クーデター後にゴルバチョフが解党を宣言した。また、連邦自体も構成共和国の自立が進み、1991年12月には改革派として共産党から離党した経験を持つロシア大統領のボリス・エリツィンらによってその解体が宣言された。

社会主義国の改革と存続
ペレストロイカからソ連邦解体までの激動は、東ヨーロッパ以外の社会主義諸国にも大きな影響を与えた。ただし、これらの諸国では、共産主義政党のような一党支配や経済統制の放棄までは及ばない場合も多かった。

ベトナム戦争や中越戦争などの歴史からソ連との関係が強かったベトナムでは、ベトナム共産党がドイモイと呼ばれる経済改革路線を採り、市場経済導入の積極推進と共産党の単独支配による社会主義国体制の存続を両立させ、中国共産党が支配する中華人民共和国の政治・経済体制に近づいた。

一方、キューバ共産党が支配するキューバでは隣接する米国の経済制裁の影響が続くため、議長フィデル・カストロが経済改革にすら否定的で、かつてのソ連型の社会主義体制が強く残っている。

朝鮮労働党が支配政党の朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)では、非常に限定された範囲での経済改革、金日成から金正日への権力世襲による一党・血族支配の固定化、基本的人権の侵害など、ソ連型社会主義の強化とも呼べる体制が築かれている。なお、北朝鮮ではチュチェ思想を基本理念としている。

2009年01月22日

日本は単一民族国家だから教育が行き届いている

単一民族発言で批判を浴びた著名人は、以下のとおりである。

中曽根康弘 - 1986年9月24日、総理大臣在任中、いわゆる知的水準発言の謝罪会見の際に「アメリカは多民族国家だから教育が容易でなく、黒人、プエルトリコ、メキシカンなどの知的水準がまだ高くない、日本は単一民族国家だから教育が行き届いている」という趣旨の教育に関する発言を行った[1]。アメリカから厳しい批判が起こったがこれは黒人やラテン系の知的水準が低いとの旨は人種差別ともとられかねない発言であるからで、この時点では日本国内での反発は少なかった。ただし、アメリカでの批判には「単一民族社会が複合民族社会より優れているという考え方自体が、最も悪質な人種差別である」との表明が含まれていた。中曽根はその釈明の中で「日本は単一民族だから手が届きやすいという意味だ」および「日本国籍を持つ方々で差別を受けている少数民族はいない」と国会で発言し、この発言が国内からはアイヌ系などから強い反発を受けた。同年10月21日にアイヌのウタリ協会などの団体から「単一民族発言はアイヌ民族の存在を無視するもの」という抗議を受けた。
山崎拓 - 1995年、衆議院議員在任中、「一民族、一国家、一言語の日本の国のあり方がこれほどの国力を作り上げた。日本人が日本人を思いやる気持ちが阪神大震災の救済にも現われている」と発言。
鈴木宗男 - 2001年7月2日、衆議院議員在任中、東京有楽町の日本外国特派員協会での講演にて、「(日本は)一国家、一言語、一民族といっていい。北海道にはアイヌ民族がおりますが、今はまったく同化されておりますから」と発言[2]。北海道ウタリ協会の吉田昇理事から「情けない。アイヌを一番知るはずの地元の鈴木代議士が正気で発言したとは思えない。中曽根康弘首相の単一民族発言から15年たつのに、相変わらずの認識だ」との反撥を受けた[3]。
平沼赳夫 - 2001年7月2日、経済産業大臣在任中、札幌市内で開かれた自民党中川義雄参院議員のセミナーにて「小さな国土に、1億2600万人のレベルの高い単一民族できちんとしまっている国。日本が世界に冠たるもの」と発言[2]。北海道ウタリ協会の阿部ユポ副理事長から「アイヌ民族が先住民族であるという歴史を知らない発言だ。一国の大臣がわざわざアイヌモシリ(人間の大地=北海道)で、こうした発言をするのはアイヌ民族に対する挑戦ではないか」との批判を受けた[3]。
鳥居泰彦 - 2003年2月13日、慶應義塾学事顧問・中央教育審議会会長在任中、衆議院憲法調査会の「基本的人権の保障に関する調査小委員会」の会議に参考人として出席した際、「日本が犯罪率が低いのは単一民族の国だからだ」という趣旨の発言をおこなう[4]。
麻生太郎 - 2005年10月15日、総務大臣在任中、福岡県太宰府市の九州国立博物館開館記念式典の来賓祝辞で「一文化、一文明、一民族、一言語の国は日本のほかにはない」「今は(世界各地で)人種、地域、宗教でいろんな争いが起きている。日本は一国家、一文明、一文化圏で、そういう国はあまりない」と発言[5][2]。
伊吹文明 - 2007年2月25日、文部科学大臣在任中、長崎県長与町で開かれた自民党長与支部大会での講演にて「大和民族がずっと日本の国を統治してきたのは歴史的に間違いのない事実。極めて同質的な国」「悠久の歴史の中で、日本は日本人がずっと治めてきた」と発言[6][2]。
中山成彬 - 2008年9月25日、共同通信社など報道各社とのインタビューで「日本は随分内向きな、単一民族といいますかね、あんまり世界と(交流が)ないので内向きになりがち」と発言[7]。この発言が与野党からの非難を受け[8]、同日に「誤解を招く表現であったので撤回します」との声明を発表。

韓国
韓国では民族主義により「単一民族意識」やそれに伴う「純血・混血」という前近代的概念が根強く残っており、それが人種差別の温床となっていると国連人種差別撤廃委員会から度々勧告を受けている。1991年に中国系やベトナム系住民の地位について指摘を受けた際に韓国政府は「韓国は単一民族国家で、人種差別はない」と主張し、2007年にも韓国政府は「韓国は単一民族」「韓国には少数民族差別はあまり見られない。しかし単一民族性から自然発生した“純血”に対する韓国人の自負心が、“混血”に対する差別を誘発している」と報告書で主張した。これを受けた国連人種差別撤廃委員会は「純血と混血という言葉は、人種的優劣主義を広めるという点で懸念される」「人種差別を無くすよう努力せよ」と勧告したが、韓国内では「内政干渉ではないのか」といった反発の声も聞かれるなど、単一民族国家意識が根強い国である。[9]

しかし韓国人は歴史的に異民族の侵入もあり、当然に混血はしており、ヒト白血球型抗原の遺伝子分析によると、韓国人は日本人以上に「混血度」が高いとの報告もある[10]。また当然に韓国には少数民族も多く暮らしており、単一民族国家ではない。
マザーグ ロリータ あんずいろ ラウオル すないろ ブレザー ブリタ ブルジョア ドレス タジン スイート こるてーぜ ハザード ソフィア シャタカイ ロンド モーリ ルッコラ マジョル ドット 寒玉日本 フッラ アルマジ マドリード メーター ディレク 紅ほっぺ パパンサ スーツ きんしゃ チザン ミオシン ティン ドーマン ケイソウ きしょうてん スミレ ルーキー カムロ ハーフセ リフレッ オーバー おみたま ボジェット ヒイラギ スコー タチSEO マトーダ グッドア チェスト

中国
中国は主要民族である漢民族と55の少数民族から構成されている多民族国家である。ただし中国(中華民国、中華人民共和国)の国籍を持つ全ての文化的集団(エスニック・グループ)を統合した政治的共同体(ネーション)として中華民族(ちゅうかみんぞく)という言葉が使われる。これには漢族だけでなく、蒙古族、チベット族やウイグル族などの少数民族も含む。

しかし中華民族とは自己を世界の中心とする意識の表現の下、漢民族が自民族を表現する概念であり現在、中華人民共和国にて中華民族とは、「中華人民共和国国内に居住し、中国国籍を有する者」として「中華民族=中華人民共和国国籍」と定義する一方、「黄河は中華民族の揺り籠」「中華民族は炎黄子孫」など、「中華民族=漢民族」と定義してその場に合わせた解釈を繰り返し、決まり文句が「中華民族は一体である」という政治的な意味を込めて広く用いられている。

中華民族の用語の起源は章太炎が漢族を表す新しい民族名として提唱し、袁世凱が外蒙古独立時に「外蒙古は数百年家を共にした中華民族のものである」と言って使用し、孫文は1912年に自身が発表した漢満蒙回藏五族共和説を基に、「よく五族共和と言うが、中国はこの五つの民族だけか? 私が言いたいのは、中国内全ての民族を同化して一つの中華民族を作り上げなければいけない。中国の民主主義はその後完成する。」と言って使用した。現在「中華民族」と言う概念は中国における公的機関や漢族系の多くの愛国者によって共産主義に取って代わる国家思想として支持されている。しかし、少数民族への労働改造所への強制収容、漢族への文化的、言語的同化政策、および少数民族地域への漢民族の移住政策など、果ては中国人民解放軍による軍事行動による制圧への反発から、分離独立運動や自治権拡大運動を起こしている(東トルキスタン、ウイグル、チベットなど)。

フランス
国民国家誕生前のヨーロッパでは王侯貴族はフランス語、平民は土着のゲルマン系、ラテン系、スラブ系の地元の方言を話すのが普通であった。フランス革命当時に実際にフランスでフランス語を話したのは人口の30%強に過ぎなかったといわれている。その後にフランス市民、フランス文化、フランス語を基礎にした共和制の元に同化政策が執行される。

1951年のディクソンヌ法によって公立の学校でフランス語以外の言語で授業を行うことは不可能になった。これによってブリタニー地方、アルサンス地方、コーシア島などでの非フランス語の縮小に繫がっている。フランスは近年にヨーロッパ地方言語・少数言語憲章に署名しているがフランスの最高裁判所は条文の内容が違憲であるとの判断を下したため憲章を批准できないでいる。

トルコ
オスマン帝国はモンゴル系の騎馬民族が他民族の領土を征服する形で生まれたためその出発点から多民族国家であった。文化的にもより高度な東ローマ帝国のヘレニズム文化、イラン文化やアラブ文化を取り込んだだけでなくギリシア人やアルメニア人やトルコ人やユダヤ人やアラブ人やクルド人がカリフの制度の下に共存する執政がとられ多くの非トルコ人が軍部、政府や商業において活躍していた。もともとモンゴル系であるトルコ人の多くがギリシャ系の容貌をしているのもこのためである。しかし帝国の凋落とともに非トルコ民族の民族独立運動が活発化し帝国が崩壊。その瓦礫から強烈なトルコ民族主義の旗を掲げて近代トルコが形成される。アルメニア人の大虐殺もこの頃に起こっている。しかしトルコの領土の3分の一はクルド人居住区であり過去には熾烈な独立運動の弾圧およびクルド文化の抑圧が行われた。またトルコのギリシア人は建国時のギリシアとの戦争との関係がギリシャに追放されている。

ちなみにトルコの憲法ではトルコはトルコ民族国家であると明記してありトルコ民族および建国の父を侮辱することは不敬罪にあたる。

人種と民族についての誤解
多民族国家のアメリカを例にとり、「肌の色がみんな同じなので日本は単一民族である」と考えている人がいるが(上記の鳥居泰彦も「一つは、日本が、住民が比較的日本人で構成されている、単一民族の国だ。要するに、ほかの人種の人たちが非常に少ないということが残念ながらあると思います」[11]と発言し、民族と人種を混同している)、肌の色の違いは人種の違いによるものである。むしろ違う人種が混在する国の方が少なく、世界の多民族国家の多くは、外見上はほぼ同じである異民族が同居しているのである。

2009年01月15日

鶴亀

サルカ おれたち レンソ ステキな レッスンプ モラル ハート バイオポ キックボ カーヒー テガシワ ビュル テープデ ブークレ バーキ ヒートシン カタル スノーソ シーディー スカラー ヒデリコ ステル トローチ ブレス カナリア プネー フリップ ジャイプ せんこう サミング セント レナン クジャク ダイレ リード ユーブ ピーク ぶるーべ ドライフ ドック フルガイド案 けーるナビ クローシス バーベル トロツ ビット ドラッグ 夢海峡 風のシア バスタ

室町以降の『御伽草子』系の一部に浦島説話の変形版があり、以下のように結末を結ぶ。

浦島は鶴になり、蓬莱の山にあひをなす。亀は甲に三せきのいわゐ(苔)をそなへ、万代を経しと也。(中略、両者は)夫婦の明神になり給ふ

一説に、ここから「亀は万年の齢を経、鶴は千代をや重ぬらん」と謡う能楽の「鶴亀」などに受け継がれ、さらに、鶴亀を縁起物とする習俗がひろがったとする。

横浜市神奈川区に伝わる話
昔、相模国三浦に浦島太夫とよばれる人がいた。彼は仕事のため丹後国に赴任していた。その息子太郎は、亀が浜辺で子ども達にいじめられているところに出会う。(全国版と同じなので中略)老人になった太郎はある漁師から両親の墓が武蔵国白幡にあると聞いた。

この情報を聞いた太郎は急いで子安の浜に行った。子安に着いた太郎は両親の墓を探したが、なかなか見つけられない。それを見かねた乙姫は、松枝に明かりを照らして場所を示した。やっとのことで墓を見つけた太郎はその地に庵をつくり、太郎はそこに住んだ。この寺は後に観福寿寺と呼ばれるようになった。

沖縄に伝わる話
本土のものと若干道具立てが異なる。

昔、南風原間切与那覇村に正直者の漁師が居て、ある日与那原の浜で髢(かもじ。髪の毛)を拾った。探している娘を見つけて渡すと感謝され、竜宮に招待したいと言う。漁師が娘と一緒に歩くと海が二つに割れて道が開け、竜宮に通じていた。娘は乙姫と素性を明かし、漁師は竜宮で歓待の日々を過ごすこととなる。三ヵ月ほど経つと漁師は故郷が恋しくなり、娘から紙包みを渡されるが「開けないように」と念を押される。やがて漁師が郷里に帰り着くと辺りは変わり果て、人間でおよそ三十三代かかるほどの年月が経っていた。漁師は開けるなと言われた紙包みを開いたが、中には髢が一束入っているのみで煙が沸き立ち、彼は白髪の老爺と化して倒れ死んだ。地元の者が老爺に敬意を払い墓を建て祀ったのが、穏作根嶽(うさんにだき)であるという。

近代における改変
竜宮城に行ってからの浦島太郎の行状は、子どもに話すにはふさわしくない内容が含まれているので、童話においてはこの部分は改変されている。これは、明治時代に国定教科書向きに書き換えられたためである。

歴史・解釈
『丹後国風土記』を基にして解釈すれば、主人公は風流な男である浦島子と神仙世界の美女であり、その二人の恋が官能的に描かれて異界(蓬莱山)と人間界との3年対300年という時間観念を鮮明に持つ。その語り口は、古代にあっては非常に真新しい思想と表現であり、神婚神話や海幸山幸神話などとはまったく異質であり、結末が老や死ではなく肉体が地上から消え去るという神仙的な尸解譚になっているのもそのためである。

『丹後国風土記』逸文によれば、その記事は連(むらじ)の伊預部馬養(いよべのうまかい)という人物が書いた作品を本にしたものでありこの人物は7世紀後半の学者官僚で『律令』選定、史書編纂に係わり皇太子学士を勤め、『壊風藻』に神仙思想を基にした漢詩を残す当代一級の知識人であった。『雄略記』や『丹後国風土記』、『万葉集』「巻九」などに見られる8世紀の浦島物語の原話は伊預部馬養によって描かれた神仙伝奇小説であった可能性が大きい。

平安時代になると浦島物語の舞台の丹後地方で、浦島明神という神社が浦島子を祀り人々の信仰を受け、中央の浦島物語と呼応する形で出てきたものと考えられる。

平安時代以降も漢文伝として書き継がれてきた。

10世紀初頭:『続浦島子伝記』
11世紀後半:「浦島子伝」(『本朝神仙伝』 所収)
11世紀末:「浦島子伝」(『扶桑略記』 所収)
13世紀初期:「浦島子伝」(『古事談』 所収) など。
12世紀以降になると、『俊頼髄脳』をはじめ『奥儀抄』、『和歌童蒙抄』など歌論書に浦島物語が登場し、仮名で書かれ宮廷や貴族達の間に浦島物語が広く浸透した[3]。

中世になると、『御伽草子』の「浦島太郎」をはじめ絵巻・能・狂言の題材になり、読者・観客を得て大衆化していき、江戸時代に受け継がれた。明治期には巌谷小波が前代の物語を恩返しに主眼を置いた子供向けの読み物に改作し、ダイジェスト版が明治43年から35年間、国定教科書の教材になり定着していった[4]。

1300年もの長い歴史を持ち、各種の文献にさまざまな形で残された話は他に例がない。