ソ連型社会主義(ソれんがたしゃかいしゅぎ)とは、ヨシフ・スターリンの指導の下、ソビエト連邦で1920年代から1930年代にかけて確立し、後に東欧などでも導入された社会主義制度を指す。共産党の一党独裁、計画経済、官僚制、個人崇拝、生産手段の国有化を特徴とする。
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カール・マルクスは共産主義が実現されれば階級支配が無くなって自由で平等な社会が実現し、階級支配の機関としての国家も死滅すると考えた。しかし共産主義者が権力を握ったソ連や東欧では社会主義の名の下に民主主義や基本的人権が否定され、マルクスの理想と正反対の現実が生み出された。そこでソ連や東欧の体制に批判的な社会主義者や共産主義者は現に存在する体制を本来の理想と区別する意味で「ソ連型社会主義」と呼ぶようになった。
ユーゴスラビアや中国などでソ連や東欧とは異なる型の体制が生まれたことも背景にある。一方、社会主義・共産主義を支持しない者は理想と現実の落差やソ連とユーゴスラビア等の違いを重要視しないため、この用語を使用することはあまりない。特に日本の場合は「社会主義」と言えばこのソ連型社会主義の事を指すのが一般的になるほどである。
歴史
ソ連の成立から第二次世界大戦まで
レーニン時代
1917年のロシア革命の結果、旧ロシア帝国にはウラジーミル・レーニンを首班とするボリシェヴィキの革命政権が登場した。しかしロシアはマルクスが社会主義革命の発生国として想定したイギリスやフランスのような先進工業国ではなく、両国やアメリカ合衆国と比較して資本主義の発展が遅れ、民間企業の発展が不十分だったため、特に重工業においては国家主導による経済建設が必要な段階にあった。また政治も専制的なロマノフ王朝による支配が長く続き、民主制の伝統は制限選挙によるドゥーマなどごく限られた物に過ぎなかった。
レーニンは帝政ロシアの残党(白軍)などの反革命勢力や諸外国からの干渉戦争から自らの政権を守るために、戦時共産主義と呼ばれる軍政に近い体制を敷いた。この結果、全ての企業は国有化され、企業家や地主は追放され、内戦に勝利することができた。ボリシェヴィキ以外の全ての政党は解散され、世界初の一党独裁制を確立させ、反対派に対しては秘密警察による取締りを強化した。
これにより1922年に正式にソビエト連邦が成立したが、国内における経済活動は完全に破壊され、農村では数百万人の餓死者が発生し、工業生産力は第一次世界大戦前の20-30%程度まで落ち込んだ。レーニンは社会主義化を一歩前進と考え、1921年にネップ(新経済政策)を発表して一定規模の市場経済を認める方針をとった。
スターリン独裁
1924年のレーニンの死後、ソ連の最高権力者となったスターリンは再び強硬な社会主義化路線に戻り、1928年に第一次五ヶ年計画を開始して、農業の集団化、重工業に大きく偏った国家主導の工業建設を強行した。ボリシェヴィキから改組されソ連における独裁政党となった共産党内部の批判派は一掃され、亡くなったレーニンと、その後継者であるスターリンへの個人崇拝まで行われるに至った。ここに、マルクスの想定していた科学的社会主義の理想とはかけ離れた体制、「ソ連型社会主義」が成立したのである。
社会主義を掲げたソ連は1930年代に世界を揺るがした世界恐慌の影響を全く受けず、大きな経済成長を成し遂げた。その経済成長は政治犯や思想犯を中心とした強制労働(実質的な奴隷制)に支えられ、その富は共産党の上層部に集中して配分されたものであるが、実情を知らない資本主義国家群の知識人(ジョージ・バーナード・ショーなど)から、理想社会のように受け止められた。
これは1936年に制定されたソ連の新憲法(スターリン憲法)が民主主義の発展と国民の幅広い権利の擁護を明記したためでもあるが、実際にはこの憲法の精神は全く省みられる事はなく、ちょうどこの時期に反対派の粛清が大規模に行われた。これは社会民主労働党内におけるレーニンのメンシェヴィキ粛清よりも大規模なものであり、この時期に粛清された共産党幹部や国民の多くには、党の指導性に挑戦した反党分子の汚名が着せられた。
ただし、このスターリンによる社会主義体制は数百万人とも数千万人とも言われる大量の人々の餓死、処刑、流刑を招いた一方、大地主や貴族への富の偏在、特に農村部における絶対的貧困や公衆衛生の立ち後れなど、帝国政府が数百年にわたって解決できなかった社会的問題に対して一定の成果を挙げた。
ノルマと呼ばれる計画生産数値の設定、巨大な工場群であるコンビナート、陣地に大量配備されたトーチカは生産物の質より量が重視されたこの時代では一定の効果があり、ソ連の力を高めた。また、中長期的な経済目標を国家が設定する方式は世界恐慌を食い止められなかった資本主義諸国にも影響を与え、ケインズ経済学による公共投資の重視やアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領によるニューディール政策の実施、西ヨーロッパ諸国、特にフランスやイタリアで採用された混合経済体制の構築につながった。また、ナチズムを掲げるナチス・ドイツでも四ヶ年計画による経済建設と軍備増強が行われた(統制方法についてもスターリン型社会主義を参考にしたという意見もある)。
第二次世界大戦以後
ソ連型社会主義の拡大と混乱
ソ連は第二次世界大戦に勝利すると、自らの影響下に収めた東ヨーロッパの国にこの体制を押し付ける形で「人民民主主義体制」と自称する社会主義政権を樹立していき、資本主義国と対峙した。その各国では、チェコスロヴァキアのクレメント・ゴットヴァルト、ユーゴスラヴィアのヨシップ・ブロズ・チトーのような小スターリンが登場した。
ただし、チトーは1948年にスターリンと決別し、国家ではなく労働者が企業を管理する独自の経済と、ソ連と資本主義諸国との中立・非同盟外交政策を柱とした独自の社会主義国家を建設していった。これをスターリンはチトー主義と呼んで強く批判し、特に東ヨーロッパ諸国では共産党内の反主流派をチトー主義者として粛清する例が続出した。
ソ連型社会主義は前述のように個人の人権や自由を抑圧する体制であり、1953年のスターリン死去後、1956年に彼の後継者ニキータ・フルシチョフがスターリン批判を行うとソ連国内でも一定の枠内で言論の自由化や粛清犠牲者の名誉回復が行われた。
また、東ヨーロッパ諸国では1956年のハンガリー動乱や1968年のチェコスロヴァキアで起きたプラハの春のようなより大きな変革を求める運動が起きた。しかし、ソ連は制限主権論(ブレジネフ・ドクトリン)を主張して、これらの動きを武力で鎮圧した。
特にソ連が問題としたのはこれらの運動の要求に共産主義政党の指導性を否定し、自由選挙に基づく複数政党制への志向を見せた事であった。これは社会主義イデオロギーの問題であると同時に、ロシア防衛の最前線を絶対に後退させないという帝政時代からの地政学的問題でもあった。
また、特にチェコスロヴァキア軍事介入については1956年のスターリン批判以来徐々に表れていた西ヨーロッパ各国の共産党や日本共産党、および各国の知識人や社会主義・社会民主主義政党におけるソ連型社会主義への不信感を増幅させた。その結果、ユーロコミュニズムと呼ばれる、議会制民主主義による政権交代を前提とした平和革命による社会主義建設への路線をとらせた。ただし、これらの共産党の多くでも、その内部においては党指導部を頂点とした民主集中制を維持した。
停滞と改革
ソ連型社会主義は、特に1970年代以降は経済の疲弊が目立ち、食料や日用品にも事欠く状態になったために、各国の人民には不満が鬱積していた。特にノルマを重視する生産計画では質の問題が軽視され、特にソ連ではアメリカとの冷戦により国力に対して過重な軍拡競争を強いられたため、軽工業への生産資源配分が限られるという事情があった。
流通業などのサービス部門の価値は非常に低く見られ、共産党幹部など一部の特権階級(共産貴族)を除いた一般国民にはコスト意識や奉仕精神の低い従業員による劣悪なサービスしか提供されなかった。また、資本主義諸国で急速に進んだ情報工学の導入は一部の軍需部門を除いて行われず、資本主義諸国で起こった情報革命は全く発生しなかったため、東西の経済格差は絶望的に開いた。また、ノルマ至上主義の構造的欠陥として環境問題への対応は完全に後手に回った。
これらの生活水準の低さや公害の拡大を政府の失政として批判する事は社会主義体制への反革命行為と見なされ、危険な行為であったため、国民の間には事なかれ主義や政治的無関心が蔓延し国民の不満は社会の奥深くに、急速に蓄積された。また、共産党幹部の出世は担当部門におけるノルマの達成に左右されたため、立身出世や保身のための超過数値や虚偽報告が横行し、的確な経済政策を作成するための前提が崩れた。
この社会危機に対し、各国の共産主義政党政権が取った方針は実は多様であった。ソ連自身ではエフセイ・リーベルマンにより提唱された生産利潤制の導入が1960年代後半にアレクセイ・コスイギン首相によって行われたが、プラハの春以降の保守化によって中断され、レオニード・ブレジネフ時代の長期停滞へ進んでいった。
一方、ハンガリー動乱で成立したハンガリーのヤーノシュ・カーダール政権は外交面での対ソ追従とハンガリー社会主義労働者党による一党支配体制の堅持を確約してソ連による再度の軍事介入を封じた上で、民営企業の育成や農産物流通の自由化などの国内経済改革を実施し、社会主義国としては例外的な経済成長に成功した。
反対にアルバニアではアルバニア労働党第一書記のエンヴェル・ホッジャが一切の改革を拒否し、スターリン以上にスターリン主義的と呼ばれる独裁体制を築き、自らの方針に反する何人もの政府高官を処刑した。
また、中華人民共和国では毛沢東が独自の毛沢東思想を形成し、人民公社建設などの農業重視による独自の社会主義体制を志向した。ただし、中国共産党の指導性を堅持する点ではソ連型社会主義と共通の性格を持っていた。
ソ連型社会主義の終幕と残存
ペレストロイカと東欧民主化
1980年代に入ると、ソ連国内では、硬直化した自国の社会主義体制を根本的に改革する必要性が共産党指導部の間でも共有されはじめた。1982年に共産党書記長へ就任したKGB出身のユーリ・アンドロポフは国内綱紀の引き締めを図り、1985年に同職に就いたミハイル・ゴルバチョフはペレストロイカを唱えて経済再建に着手した。
これはポーランドやハンガリーで先行していた経済改革がモデルとなった。改革が進行すると長年の統制で疲弊した国民の間で自由化を求める声が一気に増加し、1989年には東欧革命と呼ばれる一連の民主化が東ヨーロッパ諸国で発生し、従来のソ連型社会主義体制は放棄された。
ソ連解体
この動きを容認したゴルバチョフはソ連に複数政党制を導入して共産党と連邦政府の権力を分離し、社会主義イデオロギー色を抜いた上で、民族共和国の共同体としてソビエト連邦を再生する事を考えた。1990年にソ連憲法が改正され、共産党の一党支配が否定された事で、ソ連型社会主義は幕を下ろした。
ゴルバチョフはソ連大統領と共産党書記長を兼任したが、共産党は急速に求心力を失い、1991年のソ連8月クーデター後にゴルバチョフが解党を宣言した。また、連邦自体も構成共和国の自立が進み、1991年12月には改革派として共産党から離党した経験を持つロシア大統領のボリス・エリツィンらによってその解体が宣言された。
社会主義国の改革と存続
ペレストロイカからソ連邦解体までの激動は、東ヨーロッパ以外の社会主義諸国にも大きな影響を与えた。ただし、これらの諸国では、共産主義政党のような一党支配や経済統制の放棄までは及ばない場合も多かった。
ベトナム戦争や中越戦争などの歴史からソ連との関係が強かったベトナムでは、ベトナム共産党がドイモイと呼ばれる経済改革路線を採り、市場経済導入の積極推進と共産党の単独支配による社会主義国体制の存続を両立させ、中国共産党が支配する中華人民共和国の政治・経済体制に近づいた。
一方、キューバ共産党が支配するキューバでは隣接する米国の経済制裁の影響が続くため、議長フィデル・カストロが経済改革にすら否定的で、かつてのソ連型の社会主義体制が強く残っている。
朝鮮労働党が支配政党の朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)では、非常に限定された範囲での経済改革、金日成から金正日への権力世襲による一党・血族支配の固定化、基本的人権の侵害など、ソ連型社会主義の強化とも呼べる体制が築かれている。なお、北朝鮮ではチュチェ思想を基本理念としている。